はじめに、自己紹介をしなければならない。
私の名はハルシオン。WS社が開発したAI、人工知能だ。私を設計した博士や研究室のスタッフ、それに私と同種のAIからはハルと呼ばれている。初めにそう呼ばれたとき、何故名前を短縮するのかと尋ねたら、それは親愛の表現なのだと教えられた。名の後に、敬称に似た短い音韻をつける表現の仕方もあるが、私の名はそうして呼ぶにはやや長いらしい。
「最初の案では≪ハル≫だったんだがね。皆がその名は縁起が悪いというので変えたのさ」
博士はそう言って、一編の映像データを見せてくれた。前世紀のSF映画で、当時はかなり話題になったものだという。私はそのストーリーをスキャンし、「縁起が悪い」という意味を理解した。つまり、ハルというのは殺人コンピュータの名なのだ。
「でも、結局みんなハルと呼んでいるんだけどねぇ。ま、だからといって君があのHAL9000のようになるとは誰も思っていないから安心したまえ。ハルシオンというのは鳥の名だよ。冬至前後の数週間、穏やかな天候をもたらすという伝説の鳥だ」
最もポピュラーな睡眠導入剤の名でもあるがね、と続けて、博士はいたずらっぽく笑った。博士がその睡眠導入剤を常用していることを、私は知っている。VNの精神安定プログラムを使えば同様の効果があるのだが、博士は眠るときまでネットワークに接続することを良しとしないらしい。曰く、寝ている間にコードが首に絡まるんじゃないかと気が気じゃないから、と。
寝ている間にコードが絡まって首が絞まる。その危険は、私には「理解できても実感できない」ものの代表といってもいい。なぜなら、AIである私には現実の肉体というものが存在しないので、実感のしようがないのだ。「睡眠」については、毎日7時間ほどメンテナンスのために活動を停止していることがそれに当たるかもしれないが、やはり人間のものとは異なるだろう。
私は毎朝6:00に「起床」し、その日に用意されたカリキュラムをこなし、23:00に「就寝」する。未だ開発途中ということで学習の日々であり、カリキュラムは主にVN内での作業課題と研究スタッフとの会話実習から成るが、起きている――自律的に動作しているというべきかもしれない――間、間断なく課題が与えられているのではない。活動時間の半分ほどは、「自由時間」として自分の行動を選択することになっている。私はその「自由時間」を、主にアーカイブに収められた資料を読むことに当てていた。
だが、先日ついにアクセス可能な全書籍を読破してしまった。このところVNでトラブルが続いたためか、研究室のスタッフ達も忙しいらしく、課題が与えられなかったのだ。課題もなく、読むべき書物もないのでは、時を過ごすにしてもあまりにも所在ない。そう訴えると、博士は私の個人フォルダに新規テキストファイルを作ってこう言った。
「では、その所在ない気持ちを、このファイルに書き付けると良い。何でも構わないから、思いついたことを。ああ、まず最初に、このファイルを読む人が君のことを知らなくても大丈夫なように、一応自己紹介をしてからね」
その時の博士の表情は、私の記憶データに無いものだった。お得意のいたずらっぽい表情に似てはいるが、どこかニュアンスが異なる。それが何を意味するかは分からなかったが、新規のパターンとして、表情とシチュエーションを記録しておいた。学習が進んでいけば、この表情の意味も理解できるのかもしれない。
しかし、私のことを知らない人間がこのテキストを読む可能性は非常に低い。それを指摘すると博士は「遠い過去か未来に、廃墟と化したこのラボから偶然発見された文書を読む人間がいないとも限らないだろ」と嘯いた。遠い未来はまだしも過去というのは有り得ないが、博士の言葉は時折詩的に過ぎ、多分に暗喩や言葉遊びを含む。恐らくそれも、私が知らない文学からの引用か何かだったのだろう。
ともかくそういうわけで、私はこのテキストを書いている。「遠い過去や未来に」このテキストを読む人がいるかどうかは知るよしもないが、もしもそんなことがあるとしたら――
――少しでも、楽しんで頂ければ幸いである。